臨終の心得 by 相原
2010-08-23


そしてそれからかなりの年月を、我が人生の目的を達成するために学び働き続けたのだが、この長い時を経た後再び「死」についての関心がよみがえる時がやってきた。それは悠々自適の時を迎え、それまでの人生を振返る余裕が生まれる頃、改めて「死とは何か」「生とは何か」「宗教とは何か」と想いを巡らし、遠くに目線を合わせ静かな時の成り行きに身をゆだねることのできる頃のことである。死について考えるということは、「人生の終末としての死」、「生を考える背景としての死」そして「晩年近く直面することとなる自己の死」と三つの死があるように思う。高齢者となった今の関心事は、晩年における自分の死への認識の推移がどのようなものとなっていくのかである。迫ってきているかもしれぬ自分の死を迂闊にも見逃してしまっているのかもしれないが、今の私は死に対する恐怖を格別に感じているわけではない。しかし今後死の恐怖に再度襲われることとなり、どのように変化していくのかが気になるのである。死は生の後に来るものではなく、生と死は表裏の関係にあっていつも同時に在るものだという。だからといって死を極度に恐れていても致し方ないようにも思えるのだが、人生最後の大仕事であることは確かであり、どこまで出来るかは別として死に対する心構えは準備しておくべきだろう。特に気になるのは、長い人生の終末に当ってそれまでお世話になった人々への感謝の気持ちをどのように伝えることが出来るのか、伝えるための機会を得ることが出来ればと思う。また自分の死の前に、自分の死より悲しいだろう愛する人々の死と出会うこともあろう、その時の格段に大きい悲しみに耐えるべく心の準備も求められていると思う。他にも心しておかねばならぬことが幾つかあるようだ。更に考えておかねばならぬことがある。それは死の前にやってくるかもしれぬ認知症のことである。それは心を失っていく人間の有様を見せるのだろうが、それは人生末期の静かな悲しみ、孤独感そして情けなさなどを深めそしてそのことさえ失っていくこととなるのだろうか。その時の心境の変化は如何なものなのか確かなことは分からぬが、最後まで感謝の気持ちだけは大切に持ち続けていかなければと思う。


 ところでこれまでに多くの人々の最期に立ち会ってきた。今はの際に「早く楽になりたい」「生きているのも楽でない」と言われたことを忘れてはいない。このことは、痛みや苦痛から解放されたいとの願いは大きいものの、死そのものへの恐怖を意味していたとは思えなかった。「多くの人々は安らかに亡くなっていく」と長く高齢者医療に携わってきた医師の言葉もあるし、また「木が次第に枯れていくように、あるいは朽木がいっきに倒れるように、極めてあっけなく安楽な死を遂げるものである」といっている医者もいる。どうも死に対する怖ろしさや関心は健康時にこそ強く意識されるものの、重い病を得るとか老衰のように心身の衰弱に伴なう過程では、痛みは別として死に対する恐怖の意識は希釈緩和されていくのではないのだろうか。そして自然死の今はの際には、特別な「臨終の心得」を求められるようなこともなく、天国のお花畑を見れるかどうかは別として心穏やかな終末を迎えることができる天与の摂理が準備されているのではないのだろうか。そうあってほしいと勝手に楽観的に考えてしまうのだが、今の私はこれが有得べき成行ではないかと信じているのである。





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